追憶 ‐2‐ 『海へ』
考えてみれば、全ての予想が裏切られた。
そもそもの企画は、『無人島で泊まろう』だった気がする。去年から何となく
誰かが言い出して、まあ面白そうだなと思っていたら実現するらしい報せが
7月頃に入った。諸事情が重なり合って、また参加できないかなと思ったり
したが、何とか参加できる運びとなったのだ。
2001年8月16日。坂出の普段はあまり来ない港から、友人わたの知り合い
の舟で島に渡るという。また泳いであの島まで行くとか平気で言い出すんだろう
と思っていたので軽く驚いた。
舟はいわゆる漁船で、荷物を積み込み、思ってもいなかった熱々のコロッケ
がどっさり入った箱をもらって、出航する。
連絡船やその類の観光船には乗ったこともあるが、こんな個人的な舟での
海は初めてで、揺れも凄ければ景色も凄かった。もう見尽くしたはずの瀬戸大橋
も新たな姿を見せてくれる。ああ、夏は海だなと最初に思った。
景色を楽しんでいると、ある島に到着し接岸する。家も人も自動販売機まで
ある友人島で、とりあえずここで泳いだりしててくれと言われる。無人島には
後で行くらしい。泳ぐのに必要な荷物だけ降ろして、とりあえずその浜で泳ぐ。
藻だらけかつ遠浅というバッドコンデションながら、何とか泳いだり浮かんだり
してみる。強い陽射しと穏やかな風と。ああ、夏は海だなとまた思った。
しばらく泳いでいると、島の人が現れ我々を呼ぶ。
『みんな集まってるから、おいで』と言われ、みんなって?ニワトリか?いやお盆
だけに・・・そういえば今の人足が・・とか言いながら公民館らしき建物の前に
行くと、確かに島のみんなが集まっていて、葉っぱじゃない酒やら魚やらをくれる。
どんどん無人島一泊ツアーからはかけ離れてきた。
状況はさらに無人島どころでは無くなり、ジェットスキーに乗りなさいとか、淡水湖
で身体を洗いなさいとか、ウェイクボードはどうだとか、これでもかこれでもかと
イベントを叩き込んでくる。もう、何でもやります状態の我々は片っ端から堪能して
いった。
ジェットスキーは自分でも運転させてもらえた。アクセルは何と人差し指で引くだけ
のレバー、ブレーキは無いという。カーブする時は必ずスピードを出して身体ごと
倒せと言われた。操作は簡単で、やってみるとすぐに乗りこなせる。港に連れていか
れる時に、『まあみんな免許もあるから大丈夫やろ』と言われハハハと誤魔化しながら
何の免許だろう?と不安に思ったが、全然大丈夫だった。
『落ちてみますか?』と同乗の島人に言われ、ええ是非、と答えて後ろの席に。頑張
ってしがみつくも、島人の運転はとんでもなく、気がついたら吹っ飛んでいた。
淡水湖で無くしたサングラスを探したり、結局立てなかったウェイクボードを楽しんで
いるともう夕刻。意気揚揚と港に戻ると、どうも島人の様子がおかしい・・・
何だか険悪でおかしな雰囲気の中、遊びつかれた我々に島人の一人が言った。
『君らの乗ってきた船な、沈没したらしいんや』
『え?』
『いやいや、でも君らは違う舟でちゃんと無人島に送るから』
『いやそうじゃなくて、・・・・荷物は?』
どうも、まだ荷物が載っていたことすら分かっておらず、日本語が上手く通じない
感じのまま、夕焼けの中誰もいなくなった港で結構放置されるはめになった。
しかし、沈没とは・・・予想外もここまでいくといき過ぎな気がする。
どうやら、出発した港でサルベージ作戦が展開していたようで、その出土品が
ようやく到着。すっかり海水を吸ったテントや寝袋を見た我々に、無人島に向かう
気力もあるはずがなく、今回は撤退することに。島人代表は、何が何でも我々を
無人島に運びたがっていたが・・・・
結局、夜の海を舟で戻る。途中、与島で何だか味気ない食事を強制的に取らさ
れながらも、夜のクルージングは瀬戸大橋のライトアップもあって、実は最高だった。
到着後、船底にぽっかり穴のあいた舟と、こってりなじられた後の舟の主に対面
する。唯一見つかっていなかった友人の友人の携帯も砂・水まじりで発見された・・。
オチがつくにもほどがあるなと思った。
思い出した、例の有人島は小与島だった。覚えておこう。